平手友梨奈さんが欅坂46 を脱退しちゃいましたね。

夏の全国アリーナツアー2019 における東京ドーム公演 2 日目で角を曲がるのパフォーマンスを見て、多くの人が卒業を予感したと思います。僕はそうでした。

僕が欅坂46 のファンになったきっかけは、2017 FNS歌謡祭における平井堅とのコラボレーションにおける平手さんのダンスに衝撃を受けたことでした。平手推しとして始まったものの、彼女のあまりの凄さに「推し」という言葉はあまりに収まりが悪く、いつかそれを表明できなくなっていきました。そこからは箱推しとしてグループを見つめ、彼女のあり方については次第に共感できなくなることも増えていきました。

ですが、今は純粋に彼女の門出を祝う気持ちで溢れています。彼女がセンターに立つ欅坂46 が見られなくなることに寂しさがないと言ったら嘘になりますが、これからの新しい彼女やグループが見られることに比べれば些細なことです。また仮に、彼女がこのまま芸能界を引退して、その姿をこちらから見られなくなるのだとしても、その気持ちに変わりはありません。ファンだからこそ、彼女の「脱退」という選択に最大限の敬意を示すべきだと思うからです。

天才を形作るもの

私は天才というものをあまり信じていない。

もちろん、頭脳や肉体の器質において、生まれつき大きなアドバンテージを持った人というのはいると思うし、例えばオリンピックのような世界のトップレベルにおいては、そういうものの差が決定的足り得るということだって想像はできる。

しかし、完全なる天才という存在は信じていない。

一方で、天才的な人というのは確かにいると思う。そういう人たちは大抵どこかで膨大な努力をしているという。一万時間の法則というものもあるし、最近では一万時間という数字自体に特別な意味はないという話も聞くようになった。

では世間で言う天才というのは努力をする人それ自体のことだろうか。これは天賦の才を持った人よりは近いと思うが、まだ足りない部分があると思う。努力する主体が、何故膨大な時間をそれに費やすことができるのか。

特に科学的な根拠はないが、私はそれは本人がそれまでに得た経験の総体によって、結果的にそうなるものではないかと思う。そこから自由意志で努力する主体と、結果としての天才性があるのだと思う。

平手友梨奈の天才性

私が、天才の天才性にとって経験が大きいと考える理由は、まさに平手友梨奈こそがその大きな理由である。

平手が天才と呼ばれるようになったのはサイレントマジョリティーでのデビュー直後からだと思う。私はこの時はまだファンではなかったので正確な時期はわからないが、少なくともかなり早い時期からそのような見方をされていたことは間違い無いと思う。

欅坂の結成は 2015 年 8 月 21 日。デビューの 2016 年 4 月 6 日まで約 8 ヶ月。そこまで仮に、毎日 10 時間何かしらの努力を積み重ねたとして、10 x 8 x 30 = 2400 時間にしかならない。一万時間という数字に絶対的な意味はないにしても、少なすぎると思う。また、実際はアイドルとしての表現以外の活動や、学校にも通ったりしている中でそこまでの時間を確保することは現実的には難しいと思う。

だからこそ、私は経験にこそ鍵があるのではと考える。

もちろん、それこそ天性の才能に理由を求めることだってできると思う。だけどそれは、2400 時間未満だとしても、その時までに彼女が積み上げたものだったり、彼女をそこに向かわせた自由意志を否定してしまう気がして、私にはどうしてもできない。

平手友梨奈の天才性を可能にしたもの

では、その天才性を可能にするだけの経験とはなんだったであろうか。それは結成からデビューまでの約 8 ヶ月でもあっただろうし、生まれてからの 15 年弱でもあったろうと思う。

平手はデビュー前のことについてあまり語りたがらない。以前は仲良しの兄の話や、お笑いが好きだった話をテレビでもしていたと思うが、近年はしなくなったように思う。

私は別に平手の出自に何か確固たる原因があるということを言いたいわけではない。本人がそれについて語らないのは、その時のその状況においてはそれについて語る理由がない、という以上のことは言えないと考える。

ただ、一つ言えることは、彼女の経験の総体が結果として「オーディションを受ける」という行動を起こしたということだ。ここには紛れもない彼女の自由意志がある。

ここには、欅坂46 の多くの楽曲の振付師である TAKAHIRO 先生の著書ゼロは最強の境遇とも相似形の何かが見える。

僕の人生の大きなターニングポイントは、風見しんごさんの踊り歌う姿をテレビで見た時。これまでに一度も見たことのない激しくも摩訶不思議な動きをしながら、歌う姿に衝撃を受けた。テレビの前で釘付けになって、あわててすぐに録画したのだ。それから何度もそのテープを巻き戻して再生して、まるで忍者みたいな不思議な動きを見た。

ゼロは最強より引用

このような自由意志の発露はこの著作中で、大学のダンス集団へ入るとき、難技ウィンドミルに挑戦するとき、アポロ・シアターでのダンス大会への出場を決めるときなど、何度となく見られる。

TAKAHIRO 先生という存在

私が平手友梨奈の天才性を形作った大きな要因と考えているのは、シングル曲の歌詞に登場する一人称が「僕」の主人公だ。「僕」については既に語り尽くされていると思うが、これはやはりとても大きいと思う。

作詞の秋元康と、センターの平手と、それを囲むメンバーと、ファンのそれぞれが共犯関係のように作り上げた世界観こそが欅坂46 の物語のステージだ。

ここで、この共犯関係を可能にしたのは TAKAHIRO 先生という存在だと思う。TAKAHIRO 先生のダンスや振付は、様々な表象をヒントにして、読み取った結果作り上げられた世界観から生み出されるものだ。

ヒップホップという文化は、差別や迫害を受けてきた厳しい歴史を、ブレイクダンスやラップ、 DJ、グラフィティなどを使い、「表現」で変えていこうという思想であり、生き様だった。これまでの人生でその経験をしていない僕は、そう簡単に彼らと同じにはなれないことを現地に住んで実感した。でも、わかり合いたい!  その想いをどう形にすれば実現できるのか悩んだ。

ゼロは最強より引用

TAKAHIRO 先生はメンバーへの振り入れの前に、メンバーと一緒に歌詞を読み込み、世界観を構築する時間を長く取るという。これは TAKAHIRO 先生のダンスの方法論をそのままメンバーにやらせているようにも見えるが、私は微妙に違うと考えている。「僕」は TAKAHIRO 先生から与えられたものではなく、TAKAHIRO 先生が探すように、平手やメンバーも一緒になって探し出されたもののはずだ。

だから、「僕」の最初の発見者は TAKAHIRO 先生であり、同時に平手やメンバーたちでもあるということになる。表象としての「僕」を最初に描いたのは作詞の秋元康だとしても、それに対してここまでの意味付けがなされたのは結果的なことであり、当初から狙っていたものではないと想像している。

そうして発見された「僕」を、ファンがセンターである平手友梨奈に投影した結果作り上げられたものが平手友梨奈の天才性だったのではないだろうか。

平手友梨奈の苦悩

平手友梨奈の自己を拡張したのは、様々な関係者による共犯関係によって作り上げられた「僕」だとしたら、今その限界を作り、平手を苦しめているものも「僕」だと考えている。

平手本人は時には「僕」を自分自身に限りなく近いものとして捉え、別の時には「これは『僕』的なあり方ではない」という大きなギャップを感じていたのではないかと思う。元々は「僕」が笑っていた「世界には愛しかない」や「風に吹かれても」のような楽曲においても平手が笑わなくなっていったのは、そこに原因があるのではないか。

もちろん、どんな僕の姿にせよ、明確に正解や間違いがあるという訳ではない。だけど、「僕」がどんな時に笑うのかを見失った結果、平手自身も笑わなくなってしまったのではないのだろうかと思う。もちろん私のこの見方にしても、完全な間違いではない一方、完全な正解でもないと考える。

平手をさらに苦しめたのは、「僕」を見失った平手の姿もまた「僕」的だったからではないかと思う。ファンが描く平手の天才性が大きくなるごとに、平手がおぼろげながら持つ自己のイメージとのギャップを乖離させていき、その苦悩を表現したのが「角を曲がる」だったのではないだろうか。

平手友梨奈の天才性にファンはどう向き合うべきか

平手自身が自分をどのように考えていようと、ファンが持つイメージがどれだけ増幅されようと、変わりようがないものがある。

それは、平手自身がこれまで積み上げてきた経験だ。

平手の天才性を形作ったものは常に平手の外側にあった。それらが奇跡とも言えるタイミングで合致したのはある意味で、天に与えられたものだったのかもしれない。だが、そうだとしても、それを切り開いたのはいつだって平手の自由意志だったはずだし、そこから積み上げられた経験というものは変えようがない。

そして、その内側にあるものは他の誰とも違わない、たった一人の人間だ。

これからも平手はその天才性を大きくさせながら生きていくことになると思う。その過程で平手は絶えず変化を繰り返すと思う。これまでがそうだったように。

変化により、それまでの平手はある意味では失われてしまう。それを儚いものとして憂うのはファンの自由だと思う。だが、その変化に対して何か批判するのは傲慢だと思う。どんな変化でも受け入れていくことでしか、新しい平手の天才性は見えてこないはずじゃないだろうか。

一回性の連続としてしか、永遠性はあり得ない。永遠の中で、たった一回だからこそ美しい。「二人セゾン」はそんな曲なんじゃないかと、今は思う。